私は1994年から興梠先生に師事しています。 興梠先生のなつかしリトリートには20回ほど参加し、イトオテルミーのトレーニングも同じくらいの年数続けています。彼は最高レベルのマスター・ヒーラーであり、神秘家です。彼の元にいることは、いつも祝福であり、多次元レベルでの啓示です。愛と意識の進化に興味がある人には、彼のグループを強くオススメします。
私が興梠先生とフランスでそして日本でお会いする機会を得たのは、25年前、イトオテルミーに出会ったことがきっかけでした。そして興梠先生がヨーロッパに来てくれることになりました。
そのときイトオテルミーのアドバンス・コースを企画し、練習生や私自身が彼の教えを受けられるよう、「なつかしリトリート」を開催することになりました。
彼のセッションはどれも、自由さ、正確さ、強烈な熱の伝わり方、スピード、そして常に深い瞑想状態と結びついていることに驚かされました。
興梠先生と過ごしたこの数年間で、私はイトオテルミーと瞑想の密接な関係、施術セッション中の臨場感、そして自分のハラの中にいるという意識が大切であるという事を理解することができるようになりました。ところが興梠先生は、技術を越えたものがあることも見せてくれました。それは患者やパートナーの顔が、まるで扉を開くように変化していくのでした。
何年もの間、その瞑想的な伝授(トランスミッション)は、音やタッチを使ったシンプルなエクササイズ、古代ムーの瞑想を体験するという可能性を通して、私自身をとても深いところまで導いてくれました。時間が止まっているように思えたり、ゴングの音だけで、「過去・現在・未来」が絡み合った別の場所に導かれました。そしてただ「今、ここ」に存在していることに、人生への感謝の念を感じるような、不思議な瞬間が沢山あったことを覚えています。
興梠先生と共にいることは、とてもシンプルで、長い間会っていなかった友人と再会したようなものであると同時に、恩寵の中にいるようであり、内なる視野の変化であり、そして人生の意味を深く理解することでもあります。
興梠先生はある時言いました。 「実際、人生のすべての出来事は、自分が生きているという事実をその都度認識できるように、自分に起こるのです」
私が理解したのは、人生に何が起ころうと、何をしようと、何を感じようと、私たちはいつも自分自身に、自分自身の中心に戻ってくるということです。そしてその中心にあるのが 「なつかしさ」だと思います。 この中心には光があります。動かないもの、変わらないもの、不変のもの。決して死なないもの。。。 私が炎と呼ぶもの、生命の不二なるスパーク。
そして興梠先生は私たちをこの空間へと導いてくれます。彼に出会えることはかけがえのない贈り物だと思います。
興梠先生のイトオテルミー
2019年から毎月興梠先生のテルミーを学んでいます。
私はテルミーの資格を取ったのは2004年です。治療を続けていましたが施術時間が長くなって、これでいいのか?と思っていた時の出会いでした。先生との掛け合いを続けていき、施術時間を短くして、今とても楽に楽しんで施術できるようになりました。
「チームを作って病を癒す」
興梠先生に教わった素晴らしい理念です。
興梠先生のなつかしいワーク
東京、兵庫、バリ島の3回参加しました。
なつかしいでは自分の過去、現在、未来
参加者の過去、現在、未来
自分なのかあなたなのか境目がわからなくなるような不思議な感覚でした。
サークルのワークでは宇宙にぶっ飛んで行きました。
テルミーをされている方はなつかしいを経験されるとさらにレベルアップできます
イトオ・テルミー
私は20年来、古代インド、中国、ロシアを起源とするいくつかのヒーリング法を生徒やクライアントに伝えてきました。そして今年、大阪で行われたロシャニ先生と興梠先生のワークショップで初めてイトオテルミーを知りました。
このテクニックは、陰陽のエネルギーバランスに働きかけ、肉体の免疫システムを調整し、エーテルフィールドをクリアにし、テルミーのお線香の中に数多くの強力なハーブに基づくアロマセラピーも含まれるなど、非常に多くの層(レイヤー)の治療が沢山詰まっているため、とてもエキサイティングだと感じています。
私自身もワークショップで、迅速かつ効率的なヒーリングの結果を直接体験しました。今後もこのテクニックを実践して上達していきたいです。
なつかしいリトリート
あらゆる人のスピリチュアルな成長にとって大変重要な要素であり、ヒーリングアートの分野で働く人にとって絶対に必要な調整方法です。高次の自己と普遍的なエネルギーの海との深いつながりを、とても穏やかで大切に育てていくような方法で教えてくれます。
興梠先生のスタイルは、参加者たちの仮面を取り去り、「本当の顔」を思い出すことを許してくれます。それは、燃えるようなカタルシス(強烈な浄化)を経験することなく、柔らかくサポートされた方法で、私たちを生きとし生けるもの全ての命と容易く繋げてくれます。
私は何度も何度も「なつかしい」に戻ってくる。
私にとってこのグループは、純粋にミステリー(神秘)のお祭りなのだ。
何が起こるか全く分からないし、どんなブレークスルーが起こるかもわからない。
そのシンプルなプロセスの中で、私は何度も何度も自分自身に帰ってくる。垂直軸に沿って「またここ」「またここ」「またここ」の私に戻ってくる。
わたしは「またここ」に戻ってくる。
なぜなら興梠先生が好きだから。
もう彼とは90年代半ばから付き合いがある。
わたしは「またここ」に戻ってくる。
興梠先生が居るスペースには愛があるから。
わたしは戻ってくる。
なぜならそのスペースには詩があるから。
それは自然とわたしが求めたり、干渉しないときに
やってくるから。
わたしは戻ってくる。
なぜならいつも美しい場所で、外に座っておいしい料理を楽しみながら、人々との交流を楽しむことができるから。
わたしは戻ってくる。
なぜなら私と一緒に料理されているものがなんであれ、それらは最後には姿が明らかになるから。涙と笑いと共に。
「なつかしい顔」が何であるかはわたしには分からない。
でも「なつかしい顔」が何であるかという問いがそこにあることを許し、
その問いについて気にかけすぎないこと、それで十分なのかもしれない。
なぜならなつかしいリトリートのスペース全体がその問いに開かれているから。リトリートのスペースには恩寵が私達のハート、私達の光に降り注ぎたがっている。参加したがっている。
わたしは「またここ」に旅をしてくる。
なぜならそれは家族のようだから、心の家族のようであり、それは無限の可能性を秘めているように感じるから。
そして、この家族の中で、私はホントに自分自身になることができる。
そうでなかったら、戻ってこない。
興梠先生は、無条件で、平等主義で、意外で、フレンドリーで、不思議で、生き生きとしていて、彼の顔は驚くほど様々な表情で踊っている。彼の声は深く美しく、ユーモアに溢れている。